濱崎道子 書の世界








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2005年05月31日

涙の墓石

お手紙例によりご遠慮勝ちに喜んで頂きましたが貴兄の今回の文章の見どころは野水帖の歌を自然観照、人情の機微 新らしき感覚といふ三つに区分して論じたところ、こまかいところのよい一例は「先生の歌は一番大切な一点を捉へて、あとは全部捨てて、その捉へた究所もそれ無きが如く詠む…」このところを捉へたもので感服致しました、貴兄の文章のことは小生のところへ窓日の人々からも読みごたへがあったと云って来てゐる、ここまで来るともうあまり悪遠慮を止めて時々文章をかいて送って下さい、貴兄に岡山や福山の歌会にも行って指導して貰ひたいのであるけれど例の悪遠慮で面倒くさいから云わないでをる
二月八日に清水崑氏が来て小生の顔をかきました之は松永安左ェ門、竹原はん、川端康成 林武等或種の一流人物十名の顔をかき その各々の作品と併せて展覧会を開く企画といふこと、面ぶれが面白いので小生も大喜び      S46・2・10

-略-清水崑さんは小生の家でスケッチした似顔を大きく作品に仕上げて今日持ってきた(一番画廊の主人が持参)その大作に小生筆を執って
年よりもよほどはだへは若しとぞ恋も出世も無理をせざれば
と讃を入れて返した 三月四日にこの画廊で展覧会を開く由、その画廊主はよほど保田先生と親しいやうなので窓日二月号を与へ保田先生の文章と秋田秋良の文章とを読んでくれと云っておいた。画廊主この讃を面白い面白いと感嘆     S46・2・17


昭和40年24通、昭和41年18通、昭和42年20通、昭和43年34通、昭和44年19通、昭和45年13通、昭和46年6通、計319通の比庵書簡は、昭和46年3月22日秋田秋良の急逝により終止符を打つ。突然の奇禍による秋良の死は、萬人の惜しむところであった。

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秋田秋良の墓石
わが歌をひたすらほめてほめてさてさても涙の墓石を書かしむ
                            清水比庵

秋田秋良宛て清水比庵の書簡の一部を紹介した。決め細やかな「書画歌」により、価値観を共有する秋良の人間像を浮き彫りにする比庵の力量と秋良の思慮深さ、さらに、あくまでも信念を貫く雅友比庵と秋良のゆるぎのない友情に、明治人独自の人間性をかいま見るような思いであった。
未だ半ばだが、いったん中断し、またの機会を待つことにする。

2005年05月24日

近江の歌碑

京都から帰って少々くたぶれて二三日ブラブラしたがもはや平常通り快復、学芸大学で話しをする原稿を少しづつ書いて今日は漸く書終りました どうせどこまで行っても駒込だより調であります 当日は林武と一所に講演する(小生は講演などとはいはず常に話しちいってゐる)様子 何しろ画壇の大将 一号二十万とやら三十万とやらいふ人だから相手に不足はありません…京都では大本教の一家を訪れましたが教主は不在でした 之は歌人で小生のことをよく知ってゐる由、それから苔寺へゆきましたところ新造の室の床の間へ何かかけといふことなれど 襖は一面に堂本印象の金と黒でかいた抽象画の勇ましい奴故 大きな字でもかくとよいと思ふけれども…琵琶湖の友人の別荘で二三の歌友と共に月を見ました 皎皓々たる満月でした、その歌を歌碑にすると待ち構へてゐるので  

▲近江のうみ月てり渡るさざなみの近江のうみに月てり渡る
之がよいと満場一致              S41・11・10


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         滋賀県滋賀町 南光別邸の歌碑 昭和41年

2005年05月21日

城山歌碑

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笠岡市・城山歌碑『清水比庵-歌碑拓本集』より


昭和37年6月19日
十五日笠岡に来ました 笠岡にお出掛けのついであらば顔を見せて下さい 今年は笠岡城山に小生の歌碑を立てるといふ話が進行してをり、小生は多くの人に迷惑をかけてはすまない故と断わりましたが何でも立てなければならぬといふことで昨日城山へ場所を選定にゆきました 小生としてはよい場所が見付かりました 明日は白石へ石材を見に行きます 歌は
城山の上の広場をただ照らす朝日より見る町のある海
といふのはどうでせうか


昭和37年7月11日
お手紙拝見しました 歌碑の歌の批評をうけて他の歌にしやうかと思ひましたが あの歌は笠岡を詠んだ歌でやはりどうもこの歌が適当なやうな気がするので之に決めました かくべつな笠岡の美しさとかなつかしさとかには触れてゐませんが四句「朝日より見る」が歌の支えでありまして笠岡をほめた意も自然に出てゐると思ってゐます 結句は「海のある所」と素直に云うことにしました。
小生は本月二日高野山へ上り二泊しました 晶子の歌碑あり 例の「やは肌のあつき血しほに…」の歌が彫んであります 高野山も昔とはすっかり変ってゐるが此歌を選んだのは賛成できない 芭蕉の句碑あり「父母のしきりに恋し雉子の声」大雅堂之を書くと傳へられる、いと小さきものながらよいものであります 小生の歌
△一山の杉の大樹に父母のしきりに恋し句碑の小さく 比庵  


昭和37年8月20日
小生は15日に白石島へわたり歌碑の文字を直接石に書きました 石の上にあがり立ったまま大筆を揮ひました 歌碑は11月7日除幕式同じ作品展を催します


昭和37年9月21日
お手紙ありがたく、歌碑が城山頂上に建ちました、14日正午過ぎ白石島から笠岡へ運んで来て即日城山へ建ててしまいました 7日が除幕式だがこのやうなときは必ず貴兄に差支へが起る例たから、そしたらその前でも後でも都合のよい日に来て一度見てください、-後略-

昭和37年10月5日
ことはり主のみことが万障を排して歌碑除幕式に出席するといふこと故役目を一つ負はしてあげます、それは歌人代表として玉串を奉奠貰ふことです 歌碑とは言へども歌人の関係する処頗る少なく書家が多いので寧ち書碑とも称すべきものですがその少ない歌人の中で貴兄の出席は頗る重要故右御承知被下度

昭和37年10月9日
万障を排して除幕式へも作品展へもおいで下されありがたくありがたく久々で少しお話しが出来ると思ってゐたのに いつのまにか姿を消され甚物足らず思い米沢氏に聞いたところ大変なことが起った由…どうしましたその後の経過は、どうもお気の毒なことであります 明十日より一週間ほど伊予土佐方面へ旅行します

2005年05月19日

三輪田米山

昭和37年9月4日
初孫の御歌は不思議な不安定な作者の感情がよく表現しられてをる佳作と思います 上下が分裂してをるどころかいかにも両方で支え合って当時の作者そのままを表現してをると思ひます 今日は雨がふって涼しく昼の暑さが無いので気持もよく栃木県鹿沼といふ麻どころから送られた麻の繊維をもって作って大筆を揮って大きな字を数枚大きな字をかくと自分も大きくなって天上を飛ぶやうな気持ちになります 伊予の三輪田米山が全紙(書仙)をひろげて大きな字ばかり書いてゐた気持ちがわかります 後世米山の値打が出て作品をあさる者が大きな紙へ大きな字をかいたものばかり出てくるので嘆息したといふが愉快な話です 小林和作先生は大作でなければ名品はないといって大きなものばかり喜ばれる

△戸をあけて葡萄の棚を打つ雨の音をききつつ秋をみている

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             成田山書道美術館での三輪田米山展


        --------------

米山は松山の生まれ。明治維新を境に幕末と明治の激動の時代をすごした神主さん。その書は古典に精通していながらそれに拘泥せず、大胆な表現を展開した。彼の書は長く松山を中心に愛されていたが、戦前に佐伯祐三や墨蹟などのコレクションで知られる実業家・山本発次郎の目にとまり、その魅力が広く理解されるようになった。山本発次郎コレクションは現在、大阪市立近代美術館建設準備室に保管されている。

私が米山の書に出会ったのは今から40年ほど前、松山の浅海蘇山氏宅であった。浅海氏の出版された大作『米山』を求めては、日ごと夜毎にながめては、その逸格の書に魅了されていたのである。
昨年5月成田山書道美術館にその一部が公開され、「三輪田米山―山本発次郎の眼ざし―」の演題で、橋爪節也氏(大阪市近代美術館建設準備室主任学芸員)の講演会も開催された。ゆったりとした会場で心ゆくまで米山の書を鑑賞できたことはこの上ない至福であった。

2005年05月17日

比庵第一歌碑

春風の二荒のやまはおほらかに雲井にそびえまたはかくるる 喜寿 比庵

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                           日光二荒山歌碑
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昭和34年6月27日日光公民館前に除幕された比庵第一歌碑 、以来比庵歌碑は次々に各地に建立された。現在は二荒山神社の境内に在る。
(『清水比庵-歌碑拓本集』 1994年 濱崎道子編)

昭和34年1月1日
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鈴音会の人が7日集まって新年をいはうといってゐる貴兄も列席して下さればよいと言っています貴兄の月日入りの歌、1月1日より7日までの歌を持ってきて下さい、此月日入りの日々詠は貴兄の歌として話題になるべき歌業であると想います之に依り貴兄は不窮の歌業を成してをるとおもふ


2005年05月16日

帰庵和尚

昨日帰庵和尚来訪実に楽しい数時間を送りました帰庵和尚がいかなる人であるかは左記和尚の歌を読んで察してください
△高島の山に上れば海遠く夏を霞める飯の山観ゆ
△輪の中に二村こめて山辺より広野にかけて虹さやか也
△川隔て闇に声して子供らのあぐる花火の水にうつれる
                          S28・8・31
 
松坂帰庵…真言宗の僧。岡山県生まれ。字は旭信。14才で得度、後に岡山市三野法界院三十三世の法位を継ぎ、昭和34年大僧正となる。書を畠山八洲に学び、のち自ら慈雲尊者・寂巖の流を究める 『今良寛』と呼ばれた。會津八一とも交流があった。法界院の山門には右に比庵、左に八一の歌碑が建つ。
昭和34年没67才。
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我をはらず親切にたすけあひはらたてずにこにことはたらいて暮したい 帰庵  
               

2005年05月15日

五十而天命

五十而天命をといふ境涯に到達して不安を一掃しられたことと思ふ、徹底的に其好む処に弁じて歌うを作り其歌の高度を加へたまへ真淵は万葉を祖述しながら時流を脱することを得ずして其歌は案外読むに足るものが少ない、
元義は時流を顧ることなくしてその好む処を遺して後世を啓発してゐる、若い間は時流が気になるといふことも尤もであるが知名の齢に到っては もはや時流を問題にすべきものではあるまい。歌を好むこと貴兄の如くであれば毎月一回くらいは月のある夜を選んで鈴音会へも出席なされ平常の心を慰め給へ、去年は一時鈴音会へ出席してゐたが忽ちばったりと止めてしまった、之がいけない、頻繁ならずとも止めないで続けたまへ 蓋し貴兄の憂鬱心を洗ふに有益であると思ふ   S27・8・8                         
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元義の後に生まれて元義の歌うをよむこそたの志かりけれ 
                     八十一比庵  
 『清水比庵 歌碑拓本集』旧金波楼歌碑S38年倉敷市下津井


                       

                            

2005年05月11日

野水会  

第5回野水会を終えて

△3日間天気よろしく成績も極めてよろしく展覧会を終る
△小さなる男入来り一時に6枚買ひて面白し面白しと
△外人も来て山の芋の竹垣に黄葉せる絵を買ふといひけり
△武者小路の展覧会も近きところに並び開かれ見るべかりけり
△里芋を去年買ひしは鶴心堂といふ東京第一の表具やなりしと
△美術学校教授村田泥牛画伯紙を活かして画けることをほめぬ
                            S22・12・15

この年12月、東京都豊島区に長女明子夫婦と同居す。
東京に移り住むようになると、夏の期間4カ月は笠岡で過ごす。東京での楽しみは月一度、川合玉堂の偶庵亭を訪ねることであった。

2005年05月09日

三合配給

池に雲がうっつてゐる、あれを画にしてやうと苦心してゐるが なかなかむづかしい 洋画なら訳はないが洋画でも水中の雲をかいたものも多く見ない、歌では「雲をうつせり」で済んでしまうがそれでは一向に雲が写せない、歌でもどう写していいか考へものです
  △大池にうつれる雲の切れ目なる碧空の色の深くもあるかも 
                  S20・月日不詳・表した1/2に

寄せ書難有、諸星歌を語って相楽しむ状察すべし よき機会にご案内下さらば切符を何とかしてお仲間に入れていただきませう。正月用の画をお喜びくだされ小生も嬉しく存じます、二州画伯曰く、あなたの画は楽しんでかく画だが郷人にわからぬでせうと、而して○こんに○○○の画をかきつつ之でも大根一本にでもなるからと笑ふ。近頃は画も大根一本にでもならなければ何の価値もないというものでせう、先日は短歌詩人の喜多氏が画をくれといって来たから老人が火鉢にあたっている画を送ったところ唯難有とのみ あっけない手紙が来たが ああいふのは作者を失望させます、やっぱり之は楽しむものですからその楽しむ情が表現された手紙がこないと。
                             S20・12・23
岡山県三日間、米麦の闇を検挙したるに、百万石に達したりといふ。マッカーサー司令部のいふ食料偏在の勢見るべし、斯の如き検挙米は供出不足に備ふべきは萬金の策なれど、それよりも先手を打ちて、直ちに之を補給として、国民の絶叫せる三合配給を即行せば、即ち闇を以って闇を制し、自ら国民食料策、確立すべけむ。
      反歌
戦いにやぶるることはあらむ然れどもかく浅ましき日本のあらむとは
浅ましき日本の現状を救はむもの三合配給といふ卑近なる一手に
                             S20・12・29

 

2005年05月07日

国破れ山河はあれど

比庵は歌人町長として日光の観光開発に努めるが、昭和14年5月、部下の多額のの使い込みという不祥事がおき、町議会で不信任案が持ち出されて辞職する。退職金の全てをその返済に充てたという比庵の心境は、    
   
 ほのぼのと暁おきのみそさざい囀るこえはきのふにかわらず  


昭和17年、苦難を乗り越え、これからの芸術三昧の日々を考えていた矢先に追い討ちをかけるように妻鶴代が死去。この年、川合玉堂の賛助を得て「野水会」を創立、第1回を銀座紀伊国屋書房画廊で開催翌年第2回展を三越本店で、以後第15回展まで開催する。
昭和19年、戦禍を避けて笠岡町に疎開、再び秋良との交流が始まる。昭和20年には7通の葉書があり、いずれも敗戦後の世情を嘆く短歌で綴られている。


拝啓初孫を疎開せしむる為小生も終に当地へかへりました おひまの時おあそびにいらして下さい
△みち遠く文の通ひも絶えたれど逢ふときも来ぬふるさとなれば
△ふるさとにかへりきたれどふるさとに君がいますと思はざりしを
△ふるさとにかへりきたりてたはやすくふるさと人にあはまくは嬉し
                           S20・1・23
△国破れ山河はあれど万葉の魂を守るものを誰とか
△敗戦のそのもとよしをあげつらふ声はあれども己れを知らざりき
△敵を知り己れを知るといへれども己れを知るにありぬべからし
△いにしへの久米の子だちが名を負ひし弓矢のほまれ今にして絶えぬ
△いにしへの弓矢のほまれ万葉の魂にして傳へざらめや
△いにしへの弓矢のほまれ名を負ひしますらをぶりの芸術魂
                           S20・9・21

2005年05月06日

清き徒労

海瞑(くら)め降りしく雪の波に消ゆ清き徒労の音もあらなく
                               秋田秋良

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秋田秋良本名晃明治33年坂太郎の長男として大島村柴木に生まれる
若くして短歌に志ざし歌と観照晩鐘同人窓日選者として後進の指導にあたりその温厚な人柄は多くの人々に敬愛された青木正光中西稲影山隅衛清水比庵金光碧水等多くの家人と親交があった
昭和46年3月22日突然の奇禍により急逝されたことは萬人の惜しむところである
享年70歳 遺歌集一すぢの雲が令息により上梓されたここに13回忌を迎えるにあたり遺族歌友知人力を結集して故人ゆかりの地に歌碑を建立してその冥福を祈ることとした
 昭和58年3月22日
          秋田秋良歌碑建設期成会 
             
                (秋田秋良歌碑建立記念『清き徒労』より)

                

2005年05月03日

比庵プロフィール

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                               歌人・清水比庵

   いしぶみのほとりに座し久けれ
                日はしんしんと千年をてらす  多胡碑


1883年 2月8日岡山県上房郡高梁町(現在高梁市)に生まれる。
1905年 京都帝国大学入学
1908年 京都帝国大学法学部を卒業、司法官となる。
1910年 判事に任官、後に退官。安田銀行に入社。
1915年 安田銀行横手支店に転勤する。青森に転居する。
1917年 安田銀行を退社、古河銀行に入社。
1924年 古河電気工業株式会社に入社。
1928年 古河電気工業日光電気精銅所経理課長になる。
1929年 二荒短歌会を主宰し、雑誌「二荒」を発行する。日光電気精銅所を退職する。
1930年 日光町より懇望されて名誉町長に就任。在任中同町の観光開発の基礎を築く。
1935年 号を「比庵」と改める。
1939年 日光町長を辞し、市川市に住む。
1942年 川合玉堂の賛助を得て実弟清水三渓と「野水会」を創立し、第1回展を銀座紀伊国屋書房画廊で開催する。以後15回展まで開催、32年玉堂死去により終結する。

1959年 郷里を中心として毎年個展を開催する。この頃、歌碑建立が続く。
1962年 奥村土牛、小倉遊亀、酒井三良の賛助を得て清水三渓と「有山会」を創立、第1回展を銀座松屋で開催する。

1966年 宮中歌会始の儀の召し人となる。
1968年 歌誌「下野短歌」は「窓日」と改題、その主宰となり没年に至る。以後、精力的に短歌の指導並びに書・画・歌三芸なる作品発表を続ける。

1975年 10月30日永眠 享年92歳8ヶ月

2005年05月01日

神秘の王国 ブータン

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3月29日からブータン旅紀行をblogしてまいりましたが、今回をもって終了いたします。気楽に見ていただこうという思いが、独断と偏見に満ちた中途半端な記録になったきらいがあります。ご覧いただいた方々に感謝しながら、今回の旅の行程を添えることにします。

春最大の祭り・パロ ツェチュ祭    
       2005年3月19日ー3月27日


3月19日 日本→バンコク


3月20日 バンコク→パロ→ティンプー

早朝の便でブータン国営ドゥック航空で、ブータンの空の玄関口パロへ。まずはパロのサブジバザールへ。バザール見学後、国立博物館へ。小高い丘にあるこの博物館はタ・ゾンとも呼ばれ、パロ・ゾンの背後を守る望楼で非常に複雑な造りになっていました。先史時代の様子・切手のコレクシッヨン・中世のタンカ・動物の剥製・農機具・戦いに用いた兵器等、いろいろなものが展示していました。
ティンプーに向かう途中、ブータン最古のゾン、シムトカ・ゾンを見学しました。

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itiba2ss.jpgitiba3ss.jpg                           
 サブジバザール


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                              国立博物館


3月21日 ウォンディポダンとプナカ

ティンプーからドチュラ峠(3100m)へ。峠にはチョルテン(仏塔)が立ち並び、タルシンが風に靡いていました。幸い天気に恵まれ、7000m級の山々(マサコン7194m)等を眺望することができました。道々にはサクラソウや赤いシャクナゲが咲き誇り、亜熱帯のウォンディポダンへ。ここでウォンディ・ゾンを見学。
菩提樹の風に靡く中庭に何時とはなしに少年僧が集まってきて、写真を撮ってとせがまれました。
その後、プナカヘ。プナカは冬の首都といわれ、ティンプーの寒い時期だけ国王や宗教界の最高者ジェイケンポ等が過ごすところです。ゾンの最奥部のキュンレイ(講堂)を見学しました。内部には、本尊の仏陀・パドマサンババ・シャブドゥンの大きな像が安置されていました。

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ウォンディ・ゾン

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                        ドチュラ峠のチョルテン

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プナカ・ゾン 中央がマチュラカン、右端がキュンレイ


3月22日 ティンプー→パロ

ティンプーを観光後、パロへ戻りました。観光のコースは、メモリアルチョルテン・チャンガンラカン・
尼僧院・民族博物館・織物博物館・紙すき工場・郵便局でデザインの素晴らしい切手を求めました。


orimonogs.jpg 織物  takeziukuss.jpg 竹細工
          
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     紙すき工場               原料のこうぞ玉


3月23日 パロ(タクツァン僧院)

今日はタクツァン僧院へトレッキングです。途中ドゥゲ・ゾンに立ち寄りました。タクツァン僧院は遥かかなたの絶壁に小さく見えましたが、どうやって登るのか少々不安でしたが、急な坂道を進むこと2時間余りで到着。登るのはちょっと…という方には馬も用意されていました。ティンプーのホテルのマダムと話しがはずみ、励ましあいながら最後の坂を登りました。

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3月24日 パロ・ツェチュ祭

今日はパロ・ツェチュ祭の4日目に当たります。あいにくの雨模様でしたが、日ごろの行いが功を奏したのかタイミングよく雨が止み、センデル・ベーコル(金襴行列)が始まり、いよいよ祭りのスタートです。
本日の出し物はシンジャー・ヤブユム(閻魔の舞)シャシム(鹿の舞)。カラフルな衣装をまとい威信フランに一心不乱に舞う姿は、まさに仏が乗り移ったかに見えたものでした。夢中で写真を撮りました。
そうこうしているうちに、また雨が激しくなりホテルに引き上げました。
ゆうがた、民家訪問。ホテルで民族衣装のキラ(女性用)とゴ(男性用)の試着をしました。すっかり気に入りました。

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3月25日 パロ・ツェチュ祭

パロ・ツェチュ祭の5日目最終日、満月の夜です。年に一度、トンドルが開帳され特別な日なのです。深夜2時にホテルを出発しました。冷え込んだデヤンカ広場にはもう大勢の人々が集まり、厳粛な面持ちでご開帳を待ちわびています。まさにパロ・ツェチュ祭は、祭りというだけでなく大切な宗教行事なのですね。午前4時過ぎ完全にトンドル(パドマ・サンババの大掛仏)は開帳されました。それと同時に人々がトンドルに押し寄せ額をつけお参りをしています。その勢いたるや筆舌に尽くしがたものでした。午前五時半ごろになっても人々は興奮冷めやらぬ雰囲気でした。いったんホテルに戻り、朝食後再び祭りに向かいました。

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                トンドル・中央がパドマ・サンババ
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3月26日パロ→バンコク
フライトは定刻どおり、コルカタ経由でバンコクへ戻りました。


3月27日 バンコク→日本


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まだまだブータン紀行を続けたい気持ちですが、ここで気分を一新して参ります。
ブータンには、近いうちに再び訪ねてみたいと思っています。

   Kading-che(la) カディン・チェ(ラ) ありがとう!!





3行伝言板