【 杉原千畝の足跡】

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「杉原千畝の足跡を訪ねる旅」で、リトアニア・カウナス、ポーランド・アウシュビッツ、チェコ・テレジン強制収容所・リディツェ村等を訪ねる。

杉原千畝(19001986)は、1940年大二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害を逃れて多くのユダヤ人がリトアニアのカウナス日本領事館に押し寄せてきた。彼らは日本を通過するためのビザを求めて杉原千畝領事代理の前に現れたのである。当時の日本は、ドイツとの軍事同盟を結ぶ直前の微妙な時期であり、ユダヤ難民にビザを発給する状況ではなかった。杉原はくじの方針と人道のはざまで苦悩することになる。日に日に増える難民を目の前にした杉原は悩みぬいた末、独断でビ発給を決断。その後、侵食を忘れて書き続けたビザは、2000通以上、約6000人の命を救った。戦後、外交官を解雇された杉原は、外交官としての未知を断たれ、後半を民間人として過ごした。1986年7月31日、鎌倉で永眠。享年86歳。生涯自らがリトアニアでの出来事を語ることはなかった。

ビザ発給から29年後、自らの危険を顧ず、ユダヤ人を助けたとして、イスラエル政府から勲章を授与される。これを機に、西端100年には岐阜県八百津町に 杉原千畝記念館が開館、外務省には顕彰プレートが掲げられ、リトアニアの首都ヴェリニゥスに杉原追悼サクラ公園が開園、母校の早稲田だいがくにより顕彰碑が公園内に建立された。また、学校の教科書、オペラ、ミュージカル、テレビドラマ、書籍とうによって、杉原の功績は、いまや世界的に高く評価されている。

杉原千畝は、1939年にリトアニアに領事代理として赴任し領事館を開設した。1949年、7月18日早朝、ポーランドのウッジから多くのユダヤ人が日本領事館前に押し寄せてきた。ナチスの迫害から逃れるためには、シベリア鉄道でソ連を横断し日本を通過して自由の国に渡るルートしか残されていなかった。ソ連を通過するには日本のビザが不可欠であった。杉原は、ユダヤ人たちの窮状を日本に知らせビザ発給の許可を要請した。しかし、日本からは発給拒否の回答であった。日に日に増える難民を目の前にした杉原は悩みぬいた末、職を賭してビザ発給を決断。7月29日より大量のビザを発給し始めた。ソ連からの立ち退き命令や、日本からの通達機嫌の迫る中、杉原は領事館閉鎖後も叶うすのホテルで、又ベルリンに向かうためのカナウス駅でも、ビザや通行許可書を列車が動きだすまで書き続けた。

「私のしたことは外交官として間違いだったかもしれない。しかし、私に頼ってきた何千もの人を、見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」                        杉原千畝                                         

                          ー杉原千畝研究会資料よりー

                           ☆

リトアニアでは、首都ヴェリニゥスのネリス河畔の桜公園、そこにたつ顕つ杉原千畝記念碑、またカナウスでは、自宅兼日本領事館であった建物(現在日本文化交流センター)・領事館を立ち退いてから滞在した杉原ゆかりのホテルメトロポリス(旅の初日一泊する)、杉原千畝記念館をめぐり、改めて杉原足跡の偉大さと、その英断に感銘し、「愛と人道」の人たる確証を心に刻んだ。カナウスからポーランドへバスで移動中、ウッジ近くを通過したが、この遥かなる道のりを徒歩で何日もかけて歩き続けた人々にとって、生き延びるために唯一の選択肢だった。このような人達が、リトアニアのカウナス日本領事館に押し寄せ、ビザ発給を懇願したのである。実際距離感を体験し、いかに困難なことであったかが理解できた。

 

 

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