【只管打坐】

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鎌倉で「曹洞宗高祖・道元禅師様の顕彰碑」を見た。鎌倉街道に面した 巨福呂坂に向かって曲がるあたりに巨大石「只管打坐」の碑が在る。碑面には「永平奕保百歳納」の落款が刻まれ、碑の右側に「曹洞宗高祖道元禅師顕彰碑」もあり、鎌倉と道元の関わりが記されている。撰文は大本山永平寺監院 南澤道人。平成十四年三月吉辰謹拝建之とある。
                ☆

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              「只管打坐」には 永平奕保百歳納の落款

「曹洞宗高祖 道元禅師顕彰碑」
 曹洞宗高祖 永平道元禅師七百五十回大遠忌に値り 我等遠孫茲に心を一にして 禅師鎌倉行化の事績を此か詳らかにして その恩澤に報いんとする
 高祖越前入山後五年目の寳治元年(1247)八月三日 時に禅師四十八歳 永平寺開基大檀那波多野重公(越前志比庄の地頭京都六波羅評定衆)より鎌倉下向の懇請黙し難く公の先君鎌倉幕府三代将軍源實朝公供養の為同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生会の仏縁を期してか
永平寺叢林を初めて離れ 斯くのこととして 鎌倉行化の途に着く
 禅師がその師天童如浄禅師の遺誡を固く守り權門に近づくことを極力厭い能くよく留意し「只管打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される 然し翌寳治二年三月十三日永平寺歸山までの凡そ半年餘 その波多野公
の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸處に在って 執権北条時頼公竝びに妻室など道俗諸縁の求めに應じ 説法授戒の化等を為し正の仏法を弘められたと伝えられる 以後一生不離叢林の志を益々強め世壽五十四歳を以て遷化されるまで 永平寺に在って門弟等を強化示誨された行實等に触れるとき感慨深いものを覚えるのは我等法縁のみであろうか
尚時下って室町時代五山僧の記したものの中に執政に日々懊悩する時頼公に對して 禅師が大政奉還出家入道を淡と提言されたと見いだされることは 禅師の仏法中心大一の立場を物語って餘りあろう
終わりに 禅師鎌倉滞在中に詠しられたと傅わる和歌を刻し報恩の丹心を表す
    大本山永平寺監院 南澤道人撰
維持平成十四年壬午平年三月吉辰謹拝建之

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